自分が死んでしまった時のことを考える。
20XX年,一人の男が死を迎えた。
って書きだそうとしたけど,XX年だと具体的に考えていくことができないなぁってことで,来週死んでしまったらってことにしよう。
2017年7月10日,僕は死にます。いや,自殺するわけじゃないよ。まずは死因から考えていきますか。僕,自殺は絶対無理無理。あんなん怖すぎる。生きていることのほうが怖くなったら死んでしまうのだろうけど,まだ僕は死ぬほうが怖いので生きています。
7月6日現在,病気もないので,事故死が有力ですかね。交通事故とか? あー,妄想とはいえ人を加害者にしてしまうのは申し訳ないなぁ。
じゃあ自然災害にしますか。
7月10日は月曜日ですけど。うーん,大学の帰りに地震が起きることにしましょう。そんで,信号待ちをしていた僕は信号がジャストに当たって……。
やっぱこれはなしで。だって,きれいなままで死にたい。自然災害できれいな状態で……。思いつかない。
あとは,ストーリー性がほしいかなぁ。
やっぱりあれですよね。何かを守って死ぬみたいなの憧れますよね。別にかわいい女の子でなくても,将来有望な子どもとかでもいいし。
ストーリー性があれば,少しくらいは傷ついてもいいかな……。
犯罪者の人質に取られて的な妄想で行きます? それも変だし。
もう,影響力大きそうな自殺でいいや。きれいな体でいたいから飛び降りとか飛び込みじゃない,お薬で死ぬ方面で。
死ぬに当たって気になるのはどれだけの人が悲しんでくれるかですよね。正直友人で悲しんでくれそうな人ってそんなにいないなぁ。ここでいう悲しんでっていうのは涙をあふれさせて「どうして死んじまったんだよおおおおおお!!」みたいな悲しみ方ね。
たぶん「マジで死んだんか……」みたいな反応しかもらえないと思う。
家族くらいかなぁ。なんだかんだ悲しむでしょ。でも,自殺だしなぁ。悲しむというか,複雑な気持ちになってそう。
大学に掲示とかされるかな? さすがにないか。というか隠す感じかな? そんでSNSとかでひそかに騒がれるみたいな。「去年はレイプで今年は自殺とかマジやべぇ……」って。
次に気になるものとしてはやっぱりお葬式だよねぇ。開くのか? 自殺って開いてくれないかな……。僕,お葬式では『つぼみ』を流してほしいなぁってずっと思っているんですよね。
この夢も達成されないかぁ。
葬式の後はその後だよね。
8月にシンデレラ5thSSA公演に行く予定だったし,遺影参加とかありえる?
きもっ。
気持ち悪すぎる。
死んだっていいことないわ。特に自殺とか論外だった。
僕はしっかりとお葬式をしてくれて,そこでつぼみを流してくれるような死を迎える予定なので,よろしくお願いします。
幸せをためるトイレ。
僕あれなんすよ。自己アピールって嫌いでして。就活とかやばいだろうな。
でもその代りとして,人の悪くないところを見つけるのが得意です。これ重要なところね。良いところを見つけるのが得意なわけではないからね!
逆を返せば,人の悪いところを見つけるのが得意です。悪くないところっていうのは,僕が嫌いだと思ったところ以外っていうところで。
悪くないって言うのは良いって意味なのか?
そういえば葵トーリっていう某分厚いライトノベルの主人公も同じようなこと言ってた。
「哀しくないっていうことは幸せって事だよ」
って。
悪くないってことは良いってことですね。じゃあ,良いところを見つけるのも得意ということで。
で,話を戻して。
まぁブログって見てもらってなんぼのものじゃないですか。僕もたまにアクセス数がいつもの数倍になった日なんかちょっとうれしくなっちゃうし。
でもそういうことに幸せを感じるっていうのは,いつもとの違いっていう特別なことだからなのかなって。幸せっていうことは確かに幸せなのかもしれないけど,幸せな時っていうのは自分が幸せだということを実感できないんだよみたいな。それが普通だと思っちゃうの。
逆に不幸な時っていうのは幸せを見ることができるんだよ。どん底で,苦しくて,痛くて,哀しい時っていうのは,生きているって実感できる。
幸せが毎日続くっていうのは,自分が耐えられなくなっちゃう。よく言うじゃん、週に一度のトンカツが一番幸せを感じられるって。それと同じ。
似たようなこと他で見たことあるっていう人もいるかもしれないけど,その人の書いていることは僕が思っていたことと同じで,僕もそれを読みながら「めっちゃわかる―」ってなりながら泣いていたから許して。
で、僕はカウンターが大して回らないブログを書いている時が幸せ。書いている間は,いろいろなことを期待しながら書いているから。幸せなことがあると良いなって。
ブログを僕の知らない誰かに見てほしいなって思いながら書いているこの感じがいい。
誰も拾うことがないこのトイレのようなこの場所に、僕の幸せを綴った一文字一文字を流して溜めてっていうことの繰り返しが気持ち良いのだろう。
そういう幸せを感じて捨ててってしているこのサイクルが好き。書いていることが不幸なことでも,それを書いている間は自分の事を見ている。不幸も文字にしてこのトイレに流してしまえば、すでに流れていた幸せな文字たちと打ち消し合って不幸じゃなくなる。
不幸じゃないっていうことは幸せなんだよな。
そして,僕一人が自分の書いたものを見返す。誰も見ることがない100以上の記事となった幸せと不幸のブレンドの味。
不幸じゃない味がしてなんだか幸せ。
A「へぇ〇〇大学すか~、じゃあ頭いいんすね」僕「いやぁ、ピンからキリまでっすよ」
A「やっぱり、勉強だけできても社会じゃ役立たないような人って多いですもんね」
僕の心の声「はぁ!!!???!?!??!??」
謙遜に決まってんだろ。社会じゃ役に立たないって、それ本気で言ってる? というか、そう言える資格ないでしょ?
資格っていうのはまぁ変な表現ですが、お前に言われる筋合いはないって感じっすね。
まぁ、言っていることはわからなくもない。というか、僕も謙遜とはいえ嘘は言ってないし。
実際、大学に入ってから、今現在の僕みたいに無駄に時を過ごしている、時をかけるというか、時がかけていく少年みたいな人間もいますよ。ろくに講義には出席せず、いわゆる楽単ってやつでギリギリの単位を稼いで、遊びながら卒業する人間も少なくはないと思います。
レポートは、ほとんど使いまわしたり、テスト前になって授業資料をもらったりってね。
でも、忘れちゃいけないことがあるでしょ? そんなやつでも、その大学に入れるってだけの学力はあるわけね。高卒や中卒とは違うわけ。
あっ、学力に関して、僕の主張があるので合わせて言っておきたい。
真の学力、お勉強ができるできないの単純なやつね。それって、中学時代の学力ではかるのが一番だと思うんですよ。
高校から大学へ進むっていうところになって、「あいつはあの大学に受かったから俺なんかより相当頭がよかったんだ」って少し間違っているんですよね。
大学受験って、義務教育で学んだことがどれだけ身についていて、その後どれだけ受験勉強として頑張ったかの差だと思うんですよ。
20とかになって、中学の時のテストとか教科書見返してみてくださいよ。全部簡単でしょ? これがあの頃に理解できるだけの能力があったかの差なわけ。
正直、中学時代に平均以下だったっていうのは残念な方だと思ってる。
中学時代といえば、僕の近所にそれは頭の悪い同級生がいたんだけど、僕が数学だけテスト前に教えたらちゃっかりいい点とってた。数学だけ。僕はそいつの母親にめちゃくちゃ感謝されましたとさ。
何の話だっけ。
一気に話を戻して、勉強ができるけど社会に役立たないって言われる存在についてね。
そんなのはいない。そういうのはあなたの決めつけですよね? (ひろゆき)
あなたがそいつを使いこなせていないだけ。ある程度の大学を出ているのなら、最低限のことはできるわけ。そのセリフを言えるのは、そいつより頭がいいやつね。
で、勉強はできないけど社会に貢献できる人。これはいない。神話だよ。
勉強はできないをどういう基準で見ているかによるけどね。僕基準なら、中学時代半分以下の成績の人。
大学名で見ちゃだめだよ。
そういう人実は中学時代は優秀でしたっていう人だと思うよ。
何が言いたいかわからなくなってきたけど、自分よりお勉強ができる集団に向かって、「社会的に~」って言わないでくれ。
勉強ができるできないって、一番わかりやすい指標だから。文句をつけるな。
と、タイトルのような会話がバイト先であったので、書いたわけです。
ちなみにそいつは聞いたことのない大学で、ろくに仕事を覚えることもなく、数回だけ出勤してバックレて消えました。
お前にいう資格はねぇよっと。
THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 5thLIVETOUR Serendipity Parade!!! 静岡公演セトリ予想。
早いもので、静岡公演も後1週間ですね。宮城以来ですが現地に行くので、セトリ予想でもしようかと。こういう時間も楽しいのが素晴らしいです。
考察とかは後にするとして、取り合えず予想を。
1.Shine!
~MC~
2.Naked Romance (津田)
3.き・ま・ぐ・れ☆cafe au lait! (高野)
4.ニャンと☆スペクタル (高森)
5.Flip Flop (嘉山, 春瀬, 村中, 原)
~MC~
6.Romantic Now (黒沢)
7.追い風Running (中島)
8.エヴリデイドリーム (牧野)
9.Shabon Song (津田, 黒沢, 長島)
~MC~
10.明日また会えるよね (藍原, 高野, 高森, 牧野, 中島)
11.咲いてJewel (青木し, 青木る, 嘉山, 長島, 村中)
12.ハイファイデイズ (黒沢, 春瀬, 原, 安野, 津田)
13.Star! (全員)
~MC~
14.秘密のトワレ (藍原)
15.共鳴世界の存在論 (青木し)
16.ØωØver!!! (高森, 青木る)
17.Jet to the Future (青木る, 安野)
~MC~
18.LOVE∞DESTINY (藍原, 青木る, 牧野, 津田, 中島)
19.桜の頃 (嘉山, 春瀬, )
20.Snow wings
21.純情Midnight伝説 (安野, 原, 村中)
~MC~
22.BEYOND THE STARLIGHT (全員)
encore
23.EVER MORE (全員)
24.お願いシンデレラ (全員)
となんか、ここまで来て3時間経ってた。
んで、そんな数時間で決められるわけないわってなったんで、いったん投げた。
個人的にはØωØver!!!からJttFのつなぎとかあると熱いかなって。
その前に、存在証明とかしといてロックな感じでやっといて (適当)。
ちょっと来週の課題が山積みなので、後は識者の方に任せます。
生きること以外で悩める時間があるのは今のうち。
どれほど重要な時間なのかは、過ぎ去ってから気づくことが多い。
という、セリフが最近心にしみてくるようになりました。これは、Lump of Sugarから2010年に発売された"Prism Rhythm-プリズムリズム-"という名作ゲームに登場するフクロウのバビィさんのセリフです。確か、恋愛で悩む主人公に対し、若者よ悩め悩めみたいな感じでいったセリフだったと思います。
確かに自分の悩みなんて生きることと比べたらちっぽけなものなのかもしれない。卒論が進む気がしないとか、大学院に進学できなかったら……みたいな。でも、カルマルカ・サークルという駄作の主人公、御影海斗が言っていたように「遠回りしたって後悔するかもしれないけど、その遠回りした分だけいろいろ経験することもできる」というわけですよ。
悩んで、遠回りしてもその分経験を積むことできれば、それだけ人生が豊かになったということですし。遠回りした結果、悩んだ結果がどうこうよりその過程を大切にするべきだよね。うん。だって、僕たちはこれから先も生きていくのだから。
さて、ゲームのキャラクターのセリフを借りて偉そうなことを言いましたが、僕の遠回りはどうかという話です。正直もう遠回りというか立ち止まってます。なんか、やる気が出ないし。お勉強しようとしても2時間位で力尽きるし、論文も1日1つは読んでいたのが、週に2つが限界だよ。
そんで、何をするかというと、味方に暴言を吐きながらゲームをする。ゲームも少し前までは、負けたら自分がどうすれば勝てたのかって考えていたけど、もうやめた。味方が悪い。そのほうが気が楽になる。自分が何やっても勝てないときは勝てない。自分が死なずに全員倒せば理論はやめた。
このままでいいのか?
正直就活していたほうがよかったのではないかと思う時もある。なぜ一人でいばらの道を選んだのか、もし僕の隣に桜小路ルナみたいな女性がいて、あの時大蔵遊星へ言ったように僕にも「易しい道に一人分の幅しかないのであれば、私は喜んで茨の道でも歩んで見せる」と僕を応援してくれていれば、もっと頑張れるのだろうか。
自分のために頑張るのは限界があるのではないか? 恋って、自分より愛せるという人に抱く感情だと思うんですよ。自分よりも大事にできるってこと。
自分が一番のこの状態では頑張れる上限が決まっているんですよ。自分より大事な人のために頑張るのなら、その上限を解放できるのではないだろうか。
人は成長するために恋をするんだなって。恋愛脳ってやつですか?
とはいっても、まずは自分の意思が重要なことには変わりない。J. P. スタンレーの言葉にもあるように「自分でこうだと思う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変える」のだ。
意思がないと希望も生まれず、夢なんて存在しない。漠然と進学して~みたいに思うのがよろしくない。強固な意思を持たなくては、世界なんて変わっていくわけがない。
夢といえば、キャロライン・マリーゴールドも「夢は自分の心の中を映すものだよ」という言葉を残している。やはり夢と意思の相互関係なんだなって。
と、ここまで話しておいて、今の屑っている僕に強い意思を持たせるにはどうするんだって言うことですよ。そこを変えないとどうしようもない。
何の解決にもなっていないんだよ。
とまぁ、こんな感じでゲームのセリフを使いながら今の腐った自分を奮い立たせようとしましたが、うまくいきませんね。
なり行きに身を任せるしかないのか。過程をどう過ごすかより、結果をどう受け止めるかにシフトするべきなのだろうか。
自分がつまらない人間になっていく~社会からの波2017~。
最近の自分、切れ味といいますか、なんか独自の目線っていうものがなくなってきたと思うんですよ。1年前とか、もっと面白いことを言ってたと思うし、というかぎりぎりのところを攻めてたと思う。文春レベルで。
それが、今となってはNHKくらい当たり障りのない人間になってきたんじゃないかなって。というかつまらない。自分でもわかるもん。かれこれ1年と3カ月くらいブログを書いてきましたが、正直、ブログを書き始めた頃の文章を今まで量産できたら、カリスマとはいかないけど、中堅ブロガーくらいになれたと思う。そのくらい、最近の自分、現実世界でもだけどつまらない。イライラするわ。
こんなことをなんでいきなり思ってきたかといいますと、はてなブログって1年とか続けていると、「あの頃のあなたは」みたいな感じで「1年前にあなたはこんな記事を書いていました」ってメールで送られてくるんですよ。そんでチラッと見ると面白い。
これは本当に自分が書いた文章なのかって思っちゃうよ。でもって、最近2カ月くらいの記事を見返すとつまらない。マジで唾を吐きたくなるくらいの文章。実際見てくれた人のうちの10%はうんこしてる。僕の糞みたいな文章の出ている携帯の画面の上に糞ですよ。糞on糞。
携帯の修理にかかった代金の請求書が来ていないだけまだましですけど。
そうそう、先週のゼミの時間で「ブログ見たい」と言われたので、「ガム 乞食」で検索すれば出るよって教えたんですよ。いやぁ、正直最近糞を量産しているので見せるのも億劫だったんですけど。まぁ、人に見られることを意識すれば少しはましな文章を書けるかなって。
まぁ、「ガム 乞食」で検索すると僕のブログが出てくるわけですよ。まぁ、ガムと乞食を並べる感性を持った人間は僕以外いないでしょうし。あぁ、このブログを開設したころの自分をほめたい。
話を戻して、検索結果にブログトップは出るじゃないですか。あと、僕が書いた記事がその下にずらって出てくるわけですよ。それがほとんど1年前とかに書いた文章なんですよ。僕じゃない僕が書いたやつ。僕アインスが書いた文章。
つまりは、検索結果に1年前の記事ばかりが出るっていうのはグーグルさんからも、「今のお前はつまらない」って言われているようなもんじゃないですか。それと、検索してくれて過去の記事を見てくれた方が最近の記事まで目を通してくれたとするじゃないですか。もうゴーストライターを疑われる。佐村河内氏覚えてる人~?
で、なんでこんなにつまらない人間になってしまったかというとすべては社会が悪い。俺は悪くねぇ。
もう大学4年生。周りの人間は社会に片足を突っ込んでいる感じなんですよ。で、ですね。なんか彼らもつまらなくなってきている感じがするんですよ。
キレがなくなってきているっていうんですかね。やはり社会は人を丸くしてしまうのか。
1年前はキレキレだったあいつや、わちゃってたあいつも、今では滑らかになっていたり、ぬめってたり。もう、大学4年生総潤滑油現象が起きているんですよ。
こういうところで潤滑油にならず、最後までざらざらな味噌っかすをつづけた人になりたい。まぁ、社会全体から見たらそういうやつは、流れを悪くする邪魔者として扱われるでしょうが、社会を構成している個人から見たら、潤滑油の中で、泥臭くとがっている人として「あいつはいいなぁ」ってなると思うんですよ。
味噌汁もそうでしょ? サラサラの汁になったら飲まれちゃうんだよ。自分が失われるよ。別に味噌汁界の潤滑油の王者である豆腐とかワカメになれなくてもいいから、最後に捨てられてもいいので、最後まで自分を保って生き残る味噌っかすになりたい。
社会からの波に最後まで抗った人間として僕のことを覚えていてほしいなって思った2017年初夏。
このブログも方向性を転換する時期なのかなぁって。
そもそも、このブログに方向性なんてものがあったのかどうかみたいな話になるわけですが、一応あったのですよ。
他のブログで言うと、放送してるアニメ全部レビューしますとか、FPSで強くなるまでの記録をつけますとか、闘病記とかまぁ様々あります。
そんでもってこのブログは「私立大学文学部に進学した人間の目線で世界を見る」というスタンスだったんす。
でもね少し前に、ある本を読んだのですよ。なんか、映像製作系のやつだったんですけど、人をひきつけるためには~みたいな。その本で、アマチュアだからこそできることってありまして。
どういうことかというと、公の人ってそんなにぶっちゃけることってできないじゃないですか。でもアマチュアなら好きにできるだろっていうわけですよ。
具体例を挙げると報道の場面とかってどうしても公正にしなくちゃならないのが、我々なら偏見に基づくことができるっていうわけです。
我々アマチュアに求められているのは独自の視点だ! というわけです。
んで、僕のブログを振り返ってみますよ。
私立大学文学部に進学した人間の視点で見た日常なんてどこに特殊性があるんだよって話っすよ。僕の大学だけでも文学部の学生なんて1000人以上余裕でいますよ。日本全体で見たら何万って数になるじゃないですか。石投げたら当たるレヴェルですよ。何ら特殊でもない。
「おっ、私立大学文学部生の視点か~、おもしろそうだなぁ」なんて思う人いるか?
というわけで、このブログも特殊な視点に基づいていこうかなと思ったわけですよ。だから方向性の転換。
どう変わろうかという話になりましてですね。言い換えると僕はどういう特殊性を持っているかという話ですよ。
今まで自分は特別だと思いながら生活をしていたわけですが、本当に特別な人と比べたら特に特別な人間、特殊な人間というわけではないんですよ。
自殺に失敗した~とか余命〇年なんてことはないですし。
自分の持っている一番のコンテンツといっても、女性に3回裏切られて、お人形を愛でるようになったくらいですよ。
自殺失敗と比べて弱すぎませんか?
女性に3回裏切られたといっても、なんか世界の見方が変わったというわけでもないですし。もともと女性に対してある種の偏見を持っていたわけですしね。
あっ、見下しているとかそういうのではないですよ。会話だって普通にできますしね。
ただ人間というカテゴリでみられるけど、やっぱり違うよっていうわけですよ。違う生き物としてとらえているというわけですよ。
Y染色体万歳!
そうそう、大学で僕の過去の恋愛について話してはいけないタブーみたいな風潮になっているのは少し笑える。
A「彼女とかは?」
僕「いないよ」
A「昔は?」
B「あっ、それ触れないほうがいいやつ」
みたいにね。
まぁ話してもいいけど楽しい話にはならないからね。
とまぁ文字数もノルマに到達したしこんなもんですかね。結局、新しい方向性は見つからなかったわけですが、それもまた一興。
貫くスタンス、まるでランス、双葉杏みたいに自分らしさを大切にするぜ。