タイトルは関係ない。
そんなこんなで、本日提示されたお題は『甘酸っぱい思い出』である。
てっきり『梅干し』とか『お米』などの単語で来るのかと思ったら自分語りの命令が発せられた。こんなことを書いて何になるのだろうかと。現在大人1歳を過ぎた自分であるが、甘酸っぱい思い出と言われても困ってしまう。甘酸っぱい思い出ってそもそもどういう思い出の事を指すのか。甘酸っぱい味というと、はちみつ梅干しとかの感覚でいいのだろうか。
甘さと酸っぱさって共存できるの?
そういえば、数日前、お昼の番組で苦味は舌で感じる味に入っていないとか言ってた。少し衝撃的であった。
甘さと酸っぱさの仲が良いか悪いかの話はひとまず置いとこう。置いておくといってもいつか帰ってくるわけではない。ここに置いたまま立ち去る。
甘酸っぱい思い出、つまり、はちみつ梅干しの思い出の話をしようと思う。
梅干しって苦手な人が多いイメージがある。特に固まった塩が周りにくっついているような、リアル指向の梅干し。見るだけで唾が出てくるような梅干しだ。僕は大好きだ。姉はあまり好きではない。そのくせして、お菓子のねり梅は大好きだというのがよくわからない。ねり梅のおいしさはいまいち分からない。
話がそれたが、塩がたくさんついている梅干しはやはり見るからにしょっぱそうという事で敬遠されているのだろうか。もったいないな。
イメージだけで世間一般では苦手な人が多いという前提で語ってしまっているが、自分のまわりだけを見ると、むしろ好きな人の方が多かった。同居している祖父母はそのようなしょっぱい梅干しは大好きである。今は作っていないが、昔は家で作っちゃうくらいである。僕も幼いころからよく食べさせてもらった。梅の部分より塩の部分の方が体積多そうな梅干しを。お茶と一緒に食べるのおいしかったな。
このように書くと誤解を生んだかもしれないが、同居している祖父母は今でもピンピンしている。祖父母の話はまたいつかにとっておこう。
塩がたくさんついている梅干しを僕に与えていた人間は祖父母だけではない。小学生の頃に通っていた書道教室の先生もたまに塩だらけの梅干しをくれた。
その先生は生徒に毎回お菓子をくれた。せんべいとか飴が多かったのだが、たまに変わったものをくれる。
その一つが塩まみれの梅干しだった。先生曰く「自分で作ってるんだけど、うちだけじゃだべられないから」と。
一緒に通っていた姉は食べなかったが、僕は大喜びでバクバク食べた思い出がある。幼稚園の頃からの友達も大喜びでたくさん食べた。先生はそんな僕たちを見て嬉しそうに笑っていた。
その先生は今でもご健在らしいが、かれこれ7年くらい顔を見ていない。いつかまた会える日が来るのだろうか。
なんだか照れくさくてちゃんとお礼を言ったことがなかった。教室をやめる時も、ちょっと挨拶をしただけだった。先生は「いつでも遊びに来てね」と言っていたが、それ以来、教室の前にすら行ったことがない。大学に合格したことの報告とかしたらどんな風に喜んでくれたのだろうか。塩まみれの梅干しでもくれたのだろうか。
そんなやさしい先生との別れが、一瞬でされ、長い別れとなってしまったように、人間、簡単に別れるものである。
大学では、男としかしゃべらない自分にも、昔おつきあいしている女性がいたものだ。昔といっても、ちょうど一年前なんだが。
「あぁ、この人と一生一緒に過ごすんだな」とか思っていたけれど、別れは唐突にやってきた。
電話一本。
「ごめん、別れたい」という一言、時間にして2秒で言い終わってしまう言葉で永遠に続くと思われた関係は切れる。
そして、永遠の別れである。
何も悪いことしてなかったのにな。
友人からは「ツイッター監視しているのがばれたんじゃね」とか言われたが、それって悪いこと?
「メンタル弱いことに嫌気がさしたんじゃない?」
メンタル弱いのって悪い事ではないでしょ? そもそも、そこは相手に伝えてあったし。
女ってわからないね。そのおかげで、僕の女嫌いは急加速したのだが。もうリッジレーサーのデビルくらいの加速性能で。
あれ、梅干しの話してたはずなのに、甘酸っぱい感じになってる?
やっぱり、自分語りするしかなかったみたい。
失恋話も、聴き手には甘酸っぱいものなんだとおもう。
ただ、話し手にとっては苦いだけ。舌では感じられないらしいけど。でも、代わりに心は苦い。苦さは心で感じるんだね。
そんな、はちみつが少なめの、酸っぱさ多めのお話でした。
あれ、はちみつ梅干しの味って、甘酸っぱいじゃなくて甘しょっぱいじゃね?……